Japan-Bhutan Friendship Association

国名:ドゥク ユル(「雷竜の国」の意)
人口:708265人(2011年統計局による)
面積:38,394平方キロ(九州の0.9倍)
元首:ジグメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュック国王
言語:[国語]ゾンカ、[公用語]ゾンカ、英語、[共通語]英語、ゾンカ、ネパリ、ツァンラカ(シャチョップカ)など(その他、20以上の言語が話されている)
首都:ティンプー
通貨:Nu(ニュルタム)
政体:立憲君主制

ヒマラヤに残る最後の仏教王国ブータンは最近、「GNP(国民総生産量)だけではなく、GNH(国民総幸福量)の増大も目指す」という国王陛下のスローガンでも知られるようになりました。伝統文化・自然環境の保護と、教育、保健医療の普及や産業育成など近代化との調和を重視するユニークな国づくりが特徴です。国連など国際機関やインド、スイス、デンマークなど多くの国が開発援助をしていて、日本も最大の開発パートナーのひとつです。


国旗
上半分を占める黄色は、国王の持つ現世の権威を表している。そして、黄色は国政と宗教の両方の実り豊かな活動をあらわす。下方のオレンジはブータン人の信仰の源である、仏教における宗教的実践と精神の力を表している。描かれている白い竜は、さまざまな人種や言語を超えた国民の忠誠心を表し、牙をむき出した竜の口は、ブータンを守る男女の守護神の絶対的な力を、つめに握られた宝石は、国の豊かさと完全無欠を象徴している。

国歌
イトスギで飾られた雷龍の王国に
聖俗二つの教えを守る守護神がおわします。
その方、尊い栄光ある統治者は支配権を広げ
その変わらぬ御身は不滅なり。
仏陀の教えが花開くとき
平和と幸福の光が国民の上に輝かんことを。


略史

ブータン人による国名はドゥク・ユル(Druk Yul)といい、雷龍(ドゥク)の国(ユル)という意味で、「大乗仏教ドゥク派」の国を表している。ヒマラヤ山脈の東端に位置するブータンは、南隣のインドと北隣の中国(チベット)の両大国にはさまれながら独立を保ってきた。

8世紀、チベット仏教の賢人パドマサンババがブータンに仏教をもたらしたとされ、以後仏教はブータンの社会、政治、経済、文化のすべてに大きな役割を果たしてきた。パドマサンババはブータンではグル・リンポチェ(大切な師の意)と呼ばれ、釈迦牟尼以上に崇められている。その後数百年は、仏教の指導者や豪族が各地に個別に領地を持ち、その地を支配していた。

ブータンが国家として統一されたのは17世紀のこと。チベットから亡命してきた、カギュ派の支派、ドゥク派の高僧シャブドゥンことンガワン・ナムゲルが卓越した政治手腕で国を統一、中世ブータンの基礎を作った。しかし、シャブドゥン没後、政治的実権をめぐって争いがおこり、再び群雄割拠時代となる。

19世紀末までは、形では、宗教の長であるシャブドゥンの転生仏と世俗の長であるデシが国を支配していたが、実権は地方の領主が握っていた。19世紀後半は地方領主間の争いが激しくなる一方で、国外からの脅威も加わり、強い政治的リーダーシップが求められた。

1907年、当時ペンロップ(国土東部を管轄する総督)の職あったウゲン・ワンチュクがインドを統治していたイギリスと、ブータンの有力者・宗教指導者に推されて初代国王となり、ブータンにおける世襲君主制が始まった。初代と2代の国王は王政の確立、3代国王は社会経済開発の開始や国連に加盟するなど近代化、国際化を進めた。第4代国王は父王の路線を継承、国民の敬愛を集めながら独自の国家建設を指導していたが、2006年12月、突然王位を皇太子に譲位した。新国王の戴冠式は2008年11月6,7,8日に行われた。

また、2008年、国民評議会(上院)と国民議会(下院)の2院による議会制・政党政治が始まった。上院議員選挙は2007年12月31日に行われ、20人の上院議員が選出、4月11日には国王により5人の上院議員が指名され25人の上院議員が確定した。なお、上院議員は政党に属さない。下院議員選挙は3月24日に行われ、ブータン調和党(DPT)が47議席中45席を獲得、党首のジグミ・Y・ティンレが首相となり、新しいブータン王国の舵取りに就いた。2008年7月18日には新憲法が発布され、政体は立憲君主国となった。