Japan-Bhutan Friendship Association

会長 榎泰邦

 ブータン国王と言えば、今やだれもが2011年に国賓訪日した若き第5代ジグメ・ケサル・ワンチュク国王を思い描く時代に入った。幸い皇太子時代を含め、第5代青年国王とも何度もお目にかかる機会を得たが、私にとって、ブータン国王と聞けば、未だに第4代ジグメ・シンゲ国王との数々の思い出が脳裏に浮かぶ。

第4代国王との出会い
 最初の出会いは、1981年8月のブータン初訪問に遡る。出会いといっても、謁見を得たわけではなく、ティンプー市内で国王のプロマイドを目にしたものである。当時、私は在インド大使館一等書記官で、インド領バグドグラから陸路1泊2日でパロ入りし、次いで西岡JICA専門家の案内で首都ティンプー入りをした。街を散策していると道路わきの店先に人気俳優のプロマイドらしきものが、売られており、中でもハンサムで気品のある若者の写真に惹きつけられた。聞けば、第4代国王だという。私にとっては、鮮烈な出会いであった。滞在中を通じて、西岡専門家には大変お世話になったが、ティンプーでは留学帰りの若者グループとの夕食会をアレンジして頂いたことが思い出される。聞くと国王の側近グループとのことで、国王の下での国づくりに向け談論風発で、若き熱気が部屋中に溢れていた。そのうちの一人が、ウゲン・ツエリン、後の外務大臣であった。国王を敬愛する側近グループの熱気溢れる話しから、国づくりにかける情熱と国民に愛される国王のイメージが私の頭の中で結晶していった。
 わが人生でブータン再訪はあり得ないでと思っていたが、在インド大使に発令となり、ブータン大使を兼轄することとなった。2004年4月、信任状奉呈式で国王に謁見することとなったが、プロマイドでの出会いのせいか初めての気がしない。以後、05年、06年と毎年のようにブータン訪問をしては、国王表敬をすることができた。
 第4代国王は、06年末、退位し第5代国王が誕生する。退位後は、第4代は、首相、閣僚など政府要人にも一切会わず、外国賓客の会見申し入れも全て断っていると聞いている。それだけに、2011年、当協会・親善訪問団の団長としてブータンを訪問した際には、もうお会いできないかと半ば諦めていたが、表敬を申し込んだところ、思いもかけず自宅で引見するとの回答に接した。森副会長、渡辺事務局長とともに訪問し、約1時間におよび親しくお話しをすることができた。

孤独な国王
 結局、これまで国王時代に3回、退位後に1回、計4回お目にかかった。大変ありがたいことに、毎回、1時間以上の会談となり、その多くは余人を交えず2人だけの会話であった。秘書官が時間切れの合図にメモを入れるが、その度に国王は秘書官を追い出し、次から次へと話しの種が尽きず会話がはずんだ。勿論、日本に対する国王の配慮の現れもあろう。また、国王に会った外国要人のだれもが、国王への親密な感情を抱いて会談を終えるのかもしれない。しかし、会談を重ね、国王にとって、何の気兼ねもなく心を許して話し合える友人は、極めて数が限られており、日本大使はそのうちの一人であったのではないか、との思いを強くした。
 即ち、側近グループとの自由な交流を楽しんだ青年国王時代と異なり、揺るぎない権威が確立してくるとともに、何気ない一言も、綸言汗のごとしで、国内では勅令の如き意味を持つようになる。外国使節と言っても、インド、米国、中国はもとより欧州の大国など、いずれも国王にとっては気を抜ける相手ではない。複雑な歴史のしがらみも一切なく、この地域に政治的野心を有さず、西岡専門家以来ブータンの発展に地道に貢献し、かつ、同じ仏教国で皇室・王室の伝統を有し、精神構造も似ている日本からの大使は、国王にとって心を許して会話を楽しめる数少ない相手であったのではないか。国際情勢、ブータンの国造りへの抱負、日本の政治・経済、アジア地域における大国の動向等々、話題は次から次へと変わる。時には、ブータンの婚姻制度にまで話しが及ぶ。一国の元首に対する礼は保ちつつも、会談の回数を重ねるごとに大使という立場を越えて親しい友人に接するが如き思いを深めた。それと同時に、国民の敬愛を受けつつ、全てを一身に背負う国王の心の孤独と緊張が、ひしひしと迫ってくる。

国王の情報網はCNN
 国王と会談する毎に感心するのは、国際情勢に対する幅広い知識と正確な判断力である。アジア情勢を巡る米国、中国、インドなど大国の動向、南アジア各国の動向、その時々の主要国際問題などにつき、正確な情勢分析と、率直な意見に強く印象づけられた。また、時として、日本の総選挙の見通しや、内政動向、経済動向についても正確な知識を有し、鋭い質問が飛んでくる。
 私は、当然、王室には少なくとも20~30人規模のエリート補佐官団が設置され、情報収集と分析のとりまとめに従事しているものとばかり思っていた。しかし、国王側近に聞いてみると、このような補佐官組織は置かれておらず、国王は、毎日、CNNなど国際放送を丹念に見ては、思索していると言う。確かに、国王の発言を聞いていると、補佐官ブリーフによる付け焼き刃ではなく、思索のフィルターを通した自らの言葉であることがよくわかる。

国王治世の原点
 お会いする度に、この英邁な国王の人格形成の原点は何か、責任を一身に背負い、ブータンの近代化に指揮を執るその使命感の源泉は何か、との点に思いを馳せざるを得なかった。私なりの結論を先に言えば、国王即位直後に起こるシッキム王国の混乱とインドによるシッキム併合の衝撃ではなかったかと考える。
 第4代は、先代国王の急逝により、1972年、16歳の若さで王位につく。その8年前、1964年には地方豪族間の争いから首相暗殺事件が発生し、その後任命された首相による宮廷革命の企てが発覚している。即位後、国内の権力基盤も固まっていない青年国王が、最初に目にすることになるのが、1973年頃から顕在化する同じヒマラヤの王国シッキムの国内混乱であった。混乱の直接の原因は、ダージリンの茶畑労働者として流入し、いつしか人口の75%を占めるに至ったネパール系住民の政治的要求を抑えきれなかったことにある。しかし、根底には22歳年下の米国人女性を後妻に迎え、国政をないがしろにする国王に対し人心が離れたことがある。国民投票の結果、王制廃止賛成票が97%にまで達する。加えて、インド側の事情がある。1962年の印中国境紛争以降、対中関係が不安定でチベットからのインドへの要路であるシッキムを抑えることは、インドにとって安全保障上の要請でもあった。1975年、ネパール系住民が多数を占めるシッキム政府の「要請」を踏まえ、インド軍が介入し、あっけなくシッキムはインドに併合される。
 かつて、ヒマラヤには、チベット、カシミール、ネパール、ムスタン、シッキム、ブータンと6つの王国があった。中国、インドという2つの大国の動向に翻弄され、独立国として残ったのは、ネパールとブータンの2カ国のみ。そのネパールも2008年には王制を廃止し、ヒマラヤの王国は今やブータンが残るのみとなった。シッキム王国消滅の厳しい現実を目の当たりにして、即位直後の十代の青年国王は、何を考え、何を決意したのだろうか。心中は察して余りある。
 国民の安全と幸福を守ることとそが国王に与えられた使命であり、人心が離れれば王制はあっけなく崩壊する。統治能力を失った小国は、いとも簡単に独立を失う。大国インドと中国に挟まれた小国にとって文化的アイデンティティーを守り抜くことが最大の安全保障である。独立を維持するためには、インドとの良好な関係を維持することが絶対条件である。同時にもう一つの大国、中国を刺激しないことも肝要である。こうした様々な思いが、第4代国王のその後の治世を支えてきたのであろう。
 ここでは、一つ一つに立ち入らないが、国民最大幸福(GNH)、全国を行脚しての国民との対話、国王が先頭にたっての民主化・憲法制定、対印関係に細心の注意を払いながらの対外関係基盤の拡大、着実な経済・社会発展の実現等々、第4代国王の輝かしい治世を顧みると、すべてが多感な若き日々の原体験、決意に結びついているように思える。男盛りの50歳での退位、第5代国王への王位継承の背景にも、先代国王の急逝により僅か16歳で一国の舵取りを全て担わざるを得なかったご自身の苦労を息子のジグメ・ケサル国王には決して味あわせたくないとの強い思いがあったと考える。

(了)

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