GNH−重大な責任
「あなたは幸せですか?」「私は幸せです。」「なぜあなたは幸せですか?」「良く分からない。」
5月30日、31日にかけて実施された国勢調査の際の出口調査によれば、どうやらわれわれは幸せなひとびとの国であるようだ。しかし、その幸せの原因を分析する時間も試みもなかったようだ。
むしろこの調査から明らかなことは、われわれが独自である、ということであろう。 国勢調査で、幸福度を調査項目に持つ国が他にあるだろうか?
もちろん、この質問自体、正当性に疑問が生じることは承知である。幸福、という非常に深く、多くの人は理解すらできない事柄に包括的な答えを出すことは非常に困難であろう。長い歴史を通じて考察されてきたにもかかわらず、人はついに幸福を定義するには至らなかったのである。
しかし、GNHの生みの親であるブータンにとってこの問いはさほど重要ではない。発展と変化の指針であるGNHは非常に将来性のある概念とされ、多くの思想家、学者、開発関係者が注目してきた。
GNHはブータンにとって非常に光る概念ではあるが、開発の専門化が言うような、「実際の運用に向けた実践的枠組みや方法」には応用されていないことはわれわれも十分に認識するところである。
今日、GNH、そして何よりブータンは岐路にある。われわれはGNHにはあまり意味がなく、単にキャッチフレーズであることを証明してしまったのであろうか?GNHは概念として非常な可能性をひめており、現在のグローバル化の流れに沿った開発にとってかわるパラダイムだ、とも言われている。われわれはGNHをより、成熟させることができるだろうか?
今、われわれに必要なことはGNHを正しい視点から分析することであろう。GNHとはブータンが幸福な社会を築いてきたことに対する証明ではなし、ブータンが国として国民の幸福を保証するものでもない。さらに言えば、GNHは幸福の概念ですらないのである。
仏教の教えにあるように、幸福とは自分自身の中から生まれる感情である。自らの心を理解して、人は幸福になる。ゆえに、GNHとは政府の責任を意味するのである。政府は国民が幸せを追求し、見つけることの出来る正しい環境を整えなければならない。
GNHは確かに、発展の目標に新たな一面を加えた。しかし、ブータンはGNHを幸福に対する処方箋のパッケージ、として扱っているのではない。実際にブータン自身が、まだGNHの初期の段階にあり、議論はもっと喚起される必要がある。
よって、「あなたは幸福ですか?」という、国規模の調査はまったくの場違いな質問事項ともいえないだろう。国際社会はGNHの概念に興味を示し、理解を深めつつある。そして、GNHの多くの議論がブータン国外で発生している今、われわれは自分自身に問いかけなければならない。
これも仏教の教えにあるように、責任とはどこにでもあるものではない。責任とは指針を取る、リーダーシップにこそあるのである。皮肉な観光客の期待とは裏腹に、タクシーの運転手はGNHとは何かを説明することは出来ないであろう。しかし、政府のリーダーたちは何が議論となっているのか説明できなければならない。
国王陛下はGNHが未来への輝かしい道筋を示している、と述べられた。ゆえに、学者、開発計画者、官僚、政治家やその卵たちは、GNHからわれわれの発展と変化に必要な事項を明確に描かなければならない。
すべての人が山の頂上に住みたがる、ということはよく知られている。しかし、実はすべての幸福や成長とは山を登っている途中に存在しているものなのだ。