平山 雄大
組織的な教育機関としては僧院学校しか存在しなかったブータンに近代学校が作られたのは今から約100年前のことで、「1914年にできたハの学校」及び「1915年にできたブムタンの学校」がそれに該当します。ただし、これらの学校の詳細はよく分かっておらず、先行研究でも統一された見解がないのが実状です。設立年、生徒数、教育内容・形態等多くが謎につつまれていると言って過言ではありません。上記の設立年もあくまで定説であって、それ以前から存在していた可能性も否定できません。
根気強く調べていくと面白いことが分かってきました。ブータンの近代学校教育の黎明期に関する話には「カリンポンに留学した46人の男子」(第1期生)も重要な要素として登場するのですが、どうも彼らは国境を越えて季節移動(冬はカリンポン、夏はハ)を繰り返していたようです。そして、彼らが夏の間ハに滞在しているときにのみ使われていたのが「ハの学校」であったようなのです。私が探し出せた最も古い一次資料、当時のシッキム政務官C.A.ベルが1915年5月12日付で記した年次報告書に、こんなことが書かれていました。
46人のブータン人男子が、カリンポンのスコットランド国教会使節に任命された教師によって教育を受けている。彼らはラジャ・ウゲン(筆者注:=ウゲン・ドルジ)の監督下で、冬はカリンポン、夏はハに滞在している。
ほぼ同様の記述は、1921年に初代国王が当時の英領インド総督に送った書状にも見られます。ちなみに、皇太子(後の2代国王)及びその側近となるものの教育のために設立され、後の3代国王の教育にも大いに役立てられた「ブムタンの学校」も、王族の季節移動(冬はトンサ、夏はブムタン)に伴って場所を変える移動式の学校であったと考えられます。「ブムタンの学校」に関して、ベルは1916年5月18日付の年次報告書に以下のように記しています。
国王の居住地であるブムタンに、ブータン人男子に対して彼らの母語であるチベット語(筆者注:これは古典チベット語のチョケを指していると思われます)と並び英語を教える学校が開校している。この学校は最近開校したもので、現在18人の生徒が学んでいる。おそらく、ブータン人男子に英語教育を施すことを自らの使命としているラジャ・ウゲン・ドルジの助力によるものであろう。
同報告書には、ブータン人男子をカリンポンに留学させること、及びブータン人に対して西欧人の教師が西欧式の教育を施すことに関して、「当初ウゲン・ドルジは国内からは彼らの両親に、国外からは同宗信徒(co-religionists)に反対された」との記述も見られます。
この反対意見を唱えた同宗信徒(=仏教徒)の代表的人物は、マハーボディー・ソサエティの設立者/スリランカ人仏教活動家のアナガーリカ・ダルマパーラです。反キリスト教、反西欧諸国が信条(そして「次に生まれ変わるときは日本に生まれたい」と語るほどの超日本シンパ)のダルマパーラは、「クリスチャンの学校」にブータン人が留学していることに悲観し、「そんな悪い学校にブータン人を通わすな!」とウゲン・ドルジに手紙で進言しています。先々月のKuenselに、彼が1914年11月19日に送ったという手紙の内容が紹介されていました。長くなりますが非常に興味深いので引用します。
約20人のブータン人男子が英語を学ぶためダージリンに送られ、宣教師の世話を受けていると聞いた(筆者注:実際は46人の男子がカリンポンに~か?)。悪いニュースだ!なぜ国内に学校を作って若者に英語を教えない?クリスチャンの寄宿制学校に身を置き仏教をおろそかにすると、若者の考えかたはすぐに変わってしまう。彼らはクリスチャンの習慣を吸収し、自らの宗教に無頓着になる。若い精神・頭脳はとても影響を受けやすい。日々の生活は真実を曇らせ、精神を悪い方向に導く。(中略)日本人のやりかたを見なさい!彼らは国内に学校を開き、イギリス人やロシア人の教師を招聘して英語を学んでいるでしょう。
必要なのは、技術・産業教育だ。日本が発展したのはまさにそのためで、若者は輸入されたものを国内で生産する方法を学んでいた。ブータン人生徒の何人かは日本に留学させるべきだ。そして技術学校で学ばせなさい。産業のない国は貧しいままだ。私はブータンの男子らを非常に心配している。セイロンでは、20万人の仏教徒の男子が非仏教系の学校に通い、永遠に失われてしまった。卒業後彼らはクリスチャンになるか、道徳的にとても悪質な人間になってしまった。羽ばたく世代(rising generation)の教育は国家の伝統(national lines)にのっとってなされるべきだ。キリスト教使節は、仏教徒の子の教師にはふさわしくない。
1915年に「ブムタンの学校」が設立された背景には、このダルマパーラの進言が、そして間接的にはダルマパーラが賞賛した日本の近代学校教育が影響していたのかもしれません。手紙の中には、「教育は国家の伝統にのっとってなされるべきだ」等、その後のブータンで起こる問題を予見したような指摘も見られます。
西欧嫌いのダルマパーラも英語教育を施すことには肯定的で、必要悪という側面ももちろんあるのでしょうが、英語を身につけることの有用性は大いに理解していたようです。ブータンの対外折衝を一手に担っていたウゲン・ドルジ、さらにその後を継ぐソナム・トプゲイ・ドルジの先見の明もあったと言えるかもしれません。ブータンで学校教育の教授言語に英語が正式に採用されたのは1964年(日本語の文献の中には「1980年代後半」という記述も多々見られますが間違いです)のことですが、それより50年も前、近代学校教育が導入されたそのときから英語教育とは密接な繋がりがあったのです。
「ハの学校」はソナム・トプゲイ・ドルジによって1922年に閉鎖され、以降第1期生はカリンポンを拠点に勉学を続け、デヘラードゥーン、カルカッタ、バーガルプル等の高等教育機関に進学していきます。中には工業都市カーンプルの工場でなめし皮業の修行をした者、シロンで軍隊の訓練を受けた者もいたようです。そして、同学校は1925年に「17人の男子」(第2期生)を迎え入れて再開します。
学校の設立地もまた詳しくは分からないのですが、ブータンの歴史教科書の記述によると、「ハの学校」はワンチュク・ロゾン(Wangchuck Lhodzong)=ハ・ゾン内にあったようです。一方「ブムタンの学校」の所在地はティンレイ・ラプテン(Thinley Rabten)。初代国王がアジ・ツェンドゥ・ラモのために建てた別宅(第2代国王の生誕地?)内、もしくはそこに隣接するかたちで開校したと考えて良さそうです。
参考・引用文献
- Bell, C.A. (1915) Annual Report on the Relations between the British Government and Bhutan for the year 1914-1915, unpublished document, etc.
- Bailey, F.M. (1922) Annual Report on the Relations between the British Government and Bhutan for the year 1921-1922, unpublished document, etc.
- Kuensel (2014/01/25) “A Footnote to the First Chapter in the History of Modern Education in Bhutan”.
- Education Division, MoHE, RGoB (1996) A History of Bhutan Class X, Thimphu: RGoB.
- 川島耕司(2006)「文明化への眼差し―アナガーリカ・ダルマパーラとキリスト教―」(杉本良男編『国立民族学博物館調査報告62 キリスト教と文明化の人類学的研究』国立民族学博物館)353-370頁。
※日本ブータン友好協会『日本ブータン友好協会会報 ブータン』第122号、3-5頁より転載。