Japan-Bhutan Friendship Association

副会長 森靖之

 今年も早いもので、残り一か月となりました。少々早いですが、私の周囲のことで今年最も印象に残ったことはと思い出しています。今思うと、一番印象的だったのは、この夏の二日間、ブータンの経験のあるシニア海外ボランティアのOB会を私の住む那須那珂川町で初めてまとまった形で行ったことです。
 OB会は、私がブータン在任中時代の一時期を共に過ごした清水景明・岡田忠義OBにより始められ、年にⅠ~2回程度、極めて少人数で会合が行われていました。私も何度か参加したことがありますが、なかなかまとまった人数ではとはいかないOB会を、いつかはもう少し多人数で開催できないかと、ちょっと気になっていました。きっかけは、今も現役のコンサルタントとして働く井戸正治OBが出張の帰りに我が家によってくれたことにはじまります。井戸さんは、2005年の愛知万博でブータン館の建設で、ブータン人の職人さんたちの世話をされていた方で、時々OB会でも顔を合わせる仲でしたが、我が家の近くに住み、今はNPO法人「馬頭農村塾」を主宰する野崎威三男元シニア海外ボランティア調整員も加わって、「馬頭農村塾」でOB会を開こうとの話がまとまりました。
 私が、シニア海外ボランティア事業に深い思い入れがあるのは、実は、この事業は、1990年に私がJICAの派遣事業部にいた当時に、専門家のシニア事業として、「シニア協力専門家」の名で誕生したいきさつがあり、いつか青年海外協力隊と張り合う事業に発展するのではと期待していたことがあったからです。しかし、この事業は協力隊のライバル事業ではなく、JICA内のボランティア事業一本化計画の下で、1996年に協力隊の兄貴分として名称も「シニア海外ボランティア」と改められました。 シニア事業に期待が大きかったことで、私は1994年、ジョルダン所長だった時に、シニア事業を初めて受け入れ、2001年にはブータンでも初めてシニアの受入れを行いました。
 ブータンでは、野崎調整員が、毎月一度、必ずシニア会合を開いてくれ、私も、日取り、時間を調整してその会合には必ず出席していました。彼らの経験談を聞くことは私の楽しみであり、知識を広げることにも大いに役立ちました。帰国後も、まとまって話を聞く機会がないかと思っていたのですが、思いがけず現在住む那須で話を聞く機会が得られたことは幸いでした。
 話を聞いていると、シニア事業は、協力隊と違い一ケ国だけの経験ではなく、二ケ国,三か国、つい最近聞いた話では、実に4ケ国目といったツワモノの現れました。平均年齢が七十歳を超えているのではと思われるOBは、容貌は年相応に白髪や薄くなった髪が目立つのに、話す口ぶり若々しく、力強いものでした。言葉の問題だけでなく、民族への溶け込みや、文化・伝統への協調性が求められるシニア海外ボランティア事業は、これから、我が国がいや応なく外国人が多数住む日本に変わってゆく時代を迎えるにあたり、外国人への大きな理解者集団となってゆくことでしょう。
 年をとってからでも、外国に出る重要性を感じることができた二日間でした。

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